J.LEAGUE TECHNICAL REPORT 2023 SUMMER
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■■■■■■■■■■■■■■■■■■■「世界との差を可視化する」これが今回のリポートのテーマだ。そのフレーズの耳触りは心地よく同時に大義を感じる。しかしながら、こんなにも慎重に吟味していかなければならないフレーズも、またないだろう。私たちがサッカーという愛すべきそして憎らしいスポーツへの理解を深めようとする上で、そして日本サッカーを日々進化させていく上で、甘い香りの危険で獰猛なワードこそ、「世界」、そして「差」なのではないか。「世界のサッカーは〜」という言葉は誰しもがよく耳にする。では、サッカーにおける「世界」とは何を指すのだろうか。世界=欧州サッカーが多くの人のイメージするところだと思うが、果たして本当だろうか?日本はFIFAワールドカップでいまだに相手が開始1分で退場した2018年ワールドカップのコロンビア戦を除くと、中南米のチームに全敗している(アルゼンチン、ジャマイカ、ブラジル、パラグアイ、コロンビア、コスタリカ)が、彼らは私たちが相手にし比べるべき「世界」ではないのか。世界一熱狂的なスタジアムと呼ばれるアルゼンチンのラ・ボンボネーラ(ボカ・ジュニアーズのホームスタジアム)は「世界」ではないのか。世界トップの選手たちを集め名実ともに本気で世界最高レベルのリーグを目指しているサウジアラビアリーグは「世界」ではないのか。つい最近のFIFAワールドカップカタール2022で、私たちはその「世界」の広さを思い知ったはずである。開幕戦から決勝までの一戦一戦で見られたのは、サッカー文化のぶつかり合い、価値観のぶつかり合い、ある意味では異種格闘技のような戦いだった。国によって興奮するプレーが違い、美しいと思うプレーが違い、拍手を送るプレーが違う。イングランド人はタックルに大喝采を浴びせ、日本では「三笘の1ミリ」が全国民のスマホ画面に拡散され、クロアチアはPK戦になったら勝ち同然とも思っているような戦いぶりから実際に極限状態のPK戦で当たり前のようにゴールネットを揺らし続けた。アルゼンチンは若い選手たちが自分の幼少期の大スター、リオネル・メッシのために靴下とユニフォームを真っ黒にしながらピッチ上を走り回った。どれも私たちが戦っている「世界」のサッカーなのだ。そして、もう1つの罠となるワードが「差」である。ナショナルチーム、リーグ、サッカー文化などすべての分野で何かと他国と比較することが多々ある中で「差」と「違い」を見分けることが非常に困難であることも、また事実であるからだ。優勝候補であったスペインは、「三笘の1ミリ」によって日本に敗北した。スペインの選手は、堂安のクロスボールが転がっている途中でもう足を止めて手を挙げてオフサイドをアピールしていた。日本は、三笘が諦めずに追って極限まで足を伸ばし、中には三笘が折り返すことを信じて(手を挙げているスペインの選手を置き去りにして)仲間が詰めていた。これは逆の見方をすれば、スペインにとってワールドカップで直面した「世界との差」になり得るのかもしれない。では、この差を縮めるために「ボールが外に出るまで最後までボールを追う」「仲間を信じる」ことがスペインサッカーの今後の方針になるのだろうか。日本はスペインのように華麗に永遠とボールを回し続けることはできなかったが、スペインもまた日本のように誰一人として一瞬たりともサボったり集中を切らしたりすることのない粘り強く我慢強い守備はできなかった。これは果たして、優劣があり上と下に分けられる「差」と受け止めるべきなのだろうか。それともこれは、日本とスペインの「違い」なのだろうか。赤と青は異なるカラーだが、赤の方が上とか下とか、そこに優劣があるわけではない。フィジカルデータまたは戦術データの分析を進める際に、大前提として知っておかなければならないことがある。それは「データで優れていることが勝利に直結するとは限らない」、そして「あらゆるデータは自チームの戦術、相手チーム、環境など不特定多数の変動要素に依存し、あくまで両チームが勝利を目指しプレーした後に生まれた副産物に過ぎない」という至極、当たり前の事実である。つまり、データを比べて「はい、ここが足りません」「はい、ここに改善の余地があります」「はい、ここに差があります」といった短絡的な考えは、サッカーというスポーツに関しては必ずしも役に立たない。Aという選手が1試合で12キロ走り35回スプリントしたとする。Bという選手は、1試「世界」とは何なのか?「差」なのか、「違い」なのか?カタールワールドカップのFW登録選手で最もフィジカルデータが低かったのは…

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